THE C.R. STECYK III インタビュー
C.R. Stecyk IIIは、もはや伝説的な存在だ。Dogtownの立役者であり、ストリートアートのパイオニア。彼の写真、文章、そしてグリフ(記号的レタリング)は、1960〜70年代のサーフ&スケートカルチャーを記録しただけではない。そのカルチャーが自らをどう捉えるか、その視点そのものを形作った。
数十年を経た今も、その作品は世界中の美術館やギャラリー、出版物で紹介され続けている。そのためC.R.は今でも多忙だ。しかし、多くの人が知らないのは、彼がほとんど毎日のようにFLORENCEにいるということ。いつものように周囲を眺め、世界に反応しながら、自然体でそこにいる。
「たぶん7歳くらいの頃から、彼の作品に夢中だった。あの蛍光カラーを使った作品を見てね。今でも部屋には当時のポスターが飾ってあるよ。」と語るのは、FLORENCEのグラフィックデザイナー、アシュトン・ハーレー。ある朝、ニューポートビーチ本社の駐車場でStecykにスプレー缶を手渡したことが、このプロジェクトの始まりだった。
その自然な流れとして生まれたのが、C.R. Stecyk III Collection。Stecykが築いてきた歴史、手描きのグリフ、そして現在のカルチャーを象徴するBurgeeが融合したコレクションだ。
Video, Interview & Photos by Bryce Lowe-White
C.R.、まず最初に。あなたはどんなところで育ったのですか?
カリフォルニア州サンタモニカで生まれたよ。実際に苦労したのは母親で、私はその功績を横取りしただけだけどね(笑)。あとは坂を転げ落ちたり、満潮や干潮を眺めたり、そんな毎日だった。
両親は第二次世界大戦中に出会った。母方の家系は、イエローストーンの最初の測量隊や、モンタナ州最初の大規模牧場、最初の郵便局、イエローストーン川初のはしけ運航などを築いた開拓者の一族だった。父は広島の撮影任務を終えて軍から戻り、中西部で小さなアロハシャツを着ていた。それを見た母が「えっ?ルアウにでも行くの?」と声をかけたんだ。数日後、父は仲間を集めて本当にルアウパーティーを開いた。アパート中に砂を敷き詰め、海軍勤務だった母たち女性を招待したんだ。
だから私は全部、親の功績を自分のものにしてるだけ(笑)。幼い頃はよくビーチに置いていかれて、ライフガードは30年代にパシフィックコースト王者を4度獲ったピート・ピーターソンだった。彼はすでにハワイへ行った経験もあり、その縁でジョージ・ダウニングをはじめ多くの人たちと知り合えた。みんな両親のことも知っていて、私はただそこにいただけだった。
今振り返って、自分の人生を決定づけた出発点は何だったと思いますか?
本当に運が良かった。父はかつてクリスタル・ピアに住んでいた。今はもう存在しない桟橋だけど、サンタモニカ・ピアとオーシャンパーク・ピアの間にあった。そして私はデイブ・スウィートのショップで働くことになった。彼はポリウレタンフォーム製サーフボードを発明した人物で、これは今でも世界で最も一般的なサーフボード素材だ。全部彼がやったことで、私は何もしてない。仕事なんて一度もしたことはないけど、一生サーフボード工場にはいたね。
アートはあなたにとって職業だったのでしょうか?
「アート」っていう3文字の言葉自体が問題なんだよ。作品がコレクションに収蔵され、美術館に展示されることもある。でも200年後にもう一度来てごらん。その時、人々が何をアートと呼んでいるか見てみればいい。誰にも分からない。時代によって変わるものだからね。「そんなのアートじゃない」って怒る人もいる。私は「まあ、人は誰でも間違えるものだよ」と言うだけさ。「悪かったね」と謝っておけばいい(笑)。

これまでの人生を振り返ると、あなたを形づくったのは作品ではなく、経験だったと言えますか?
そうだね。もしかすると先祖たちは、「魚は沖の深場へ行ったほうがたくさん獲れる」と分かっていたのかもしれない。私の場合は、ただ最初から深い場所へ放り込まれただけなんだ。ピート・ピーターソンは、当時誰もが認める最高のサーファーだった。少なくとも彼と同世代の人たちは皆そう言うよ。歯医者は写真記録家として有名なドン・ジェームスだったし、父には暗室があった。母は陶芸家だった。そんな環境に囲まれて育ったから、すべてがごく自然なことだった。
Florenceファミリーとは長い付き合いですが、最初の思い出は何ですか?
特にアレクサンドラのことをよく覚えている。私はノースショアで多くの時間を過ごしていたけれど、当時あそこには女性、それもサーフィンをする女性はほとんどいなかった。彼女は3人の子どもを連れていて、車の後ろで寝泊まりしていたんだ。それでも学校にはきちんと通わせ、学ぶべきことを学ばせていた。子どもたちの礼儀がとても良かったのは、彼女が素晴らしい母親だったから。でも、波が良ければ迷わず子どもたちを海へ入れていた。
私は筋金入りのサボり魔だった。学校へ行くより、一日中海を眺めていたかったんだ。そこで父は、「ミッキー・ドラというサーファーに、お前が学校へ行くかどうか決めてもらおう」と言った。私は「これで学校へ行かなくて済む」と大喜びした。でも人生最悪の決断だったよ(笑)。休めるのは、本当に波が良い日だけだったから。しかもミッキーにとって「良い波」というのは完璧なコンディションだけ。だから最高の日だけサーフィンできたけれど、学校を休むには成績も維持しなければならなかった。
アレクサンドラも、あの3兄弟をそんなふうに育てていた。3人とも本当に素晴らしい人間になったし、誰一人同じじゃない。まるで型にはめて育てたわけではない。それこそが本当の子育てなんだと思う。彼女は私の母によく似ている。とても芯が強い人だった。家でふざけていれば、すぐ外へ放り出される(笑)。アレックスには明確な基準があった。そして、それは今のジョンの子どもにも表れている。礼儀正しく、前向きで、集中力がある。それは、しっかりした親に育てられている証拠だ。

ジョンが子どもの頃、あなたがFlorence家に置いていったライカのカメラを使っていたという話は本当ですか?
私はあちこちにカメラを置き忘れてきたよ(笑)。人生ずっと、行く先々で散らかしてきた。ジョンはいつでも私の機材を自由に使っていいし、私も彼のものを使うことに何のためらいもない。
父は第二次世界大戦中の従軍カメラマンで、補給部隊の士官として機材を管理していた。私は幼い頃から、鹵獲したドイツ製カメラの写真を見て育った。アメリカ軍はドイツ製機材で映像を撮影し、その性能を研究していたし、ドイツ軍も逆にアメリカ製機材を使っていた。ドイツ製レンズは昔から優秀だったから、私にとってライカはただのドイツ製カメラだった。特別な存在ではない。単なる道具だったんだ。家には暗室があり、ドイツ製の引き伸ばし機もあった。それが当たり前の環境だった。
父は広島を撮影していた。私は広島市役所にあった溶けたガラス製の文鎮を見ながら育った。少し不思議な話だけれど、私の家では写真は芸術でも工芸でもなく、ただの道具だった。他の機材と何も変わらない存在だったんだ。
何年か前、ジョンがカリフォルニアで怪我から回復していた頃、JP・オルソンと一緒に暗室を作った。ライカの引き伸ばし機もカメラも全部揃えてね。そういう意味では、私たちには昔から重なる部分があった。写真の道具が身の回りになかったことなんて、一度もないよ。
ジョンの写真についてはどう思いますか?
彼は良い写真を撮るよ。でも、自分では絶対にそう言わない。エリック(クヌートソン)が自分のことを優れたシネマトグラファーだと言わないのと同じさ。レンズの後ろでは、本当に落ち着いているんだ。
写真を始めた頃のことを教えてください。当時は仕事として撮っていたのですか? それともただ楽しんでいたのでしょうか?
家には暗室があったから、現像の工程は子どもの頃から知っていた。そして、サーフボードが水の中でどう機能しているのかを記録したいと思うようになった。私たちはサーフボードを作ろうとしていたし、私はデイブ・スウィートのもとで断続的に働いていた。彼はPUフォームなどの素材をサーフボードへ応用した先駆者だった。私たちが試していた改良が、水の中で実際にどう機能するのか知りたかった。そのためには撮影するしかなかったんだ。
だから父のカメラを持ち出しては壊し、また別のカメラを壊し……そんなことを繰り返していた(笑)。ある日、父に「いったい何をやっているんだ?」と聞かれたので、「ボードのテールから流れる水を撮ろうとしてる」と答えた。すると父は「本当に必要なのは防水ハウジングだ。でも、その前に私のカメラを壊すのはやめろ」と言った。それが私にとっての学びの瞬間だった。つまり、自分で仕事をしてお金を稼ぐ必要があるとね。
私なりの「仕事」は、サンタモニカビーチでコーラの空き瓶を1本2セントで拾うことだった(笑)。そうやって少しずつお金を貯め、やがて望遠レンズを手に入れた。そしてボードのテールから流れる水を撮影し、人がどうプレーニングしているか観察できるようになった。そうして私は、いろいろな人との縁でサーフボード業界に身を置くようになった。でも、それは私の功績じゃない。ただ、いつも「いるべき場所」にいただけなんだ。
Dogtownの連中の邪魔をしていたのかもしれないね(笑)。ウォーレン・ボルスターが『Skateboarder Magazine』を復活させていて、トニー・アルバの「Who's Hot」という企画を撮る予定だった。でもウォーレンが怪我をして撮影できなくなった。そこでトニーが「おい、お前が撮れないか?」と言ってきたんだ。それで少し撮影して、そのまま終わった。当時は、何十年後にこんな話をインタビューでしているなんて想像もしなかったよ。
ただカメラを向けて、シャッターを切っただけさ。

今回のFlorenceとのコレクションは、どのように始まったのですか?
ジョンがすべてを手放して、小さなスタートアップを立ち上げたことには本当に感心したよ。あんな挑戦を見たら、関わりたくならないわけがない。とても健全なことだと思った。
それに、私たちが何かを変えられるか、あるいは物語を前へ進められるかどうかなんて皮肉なものだよ。ただ、ほんの少し違う空気感を加えたいと思っているだけなんだ。
作品について聞かせてください。グリフやスプレーペイント、あなた独特のレタリングについては?
あれは、子どもの頃から自然に身についた手書き文字なんだ。何も考えずに描けば、自然と面白いところへたどり着く。でも考え始めた瞬間、それはもう描いているんじゃなくて、「描こうとしている」だけになる。
何かを「難しい」とか「機能的だ」と言い始めた途端、必ず誰かと議論になる。それは「誰が一番大きな波に乗ったか」と聞くようなものだ。誰もが自分の意見を持っている。そして面白いのは、本当に巨大な波に乗ってきた人ほど、自分からその話をしないということなんだ。
あなたにとって、一番お気に入りの道具は何ですか?
正しい心の状態でいることだね。そうすれば必要な道具は自分で生み出せる。
何もない砂漠へ出かけるのは楽しいよ。ただ、その場で反応すればいい。やがて日陰でも110°F(約43℃)ある暑さにも反応するようになる。先日デスバレーへ行った時も温度計は110°Fを示していた。でも実際には照り返しや地面からの熱でもっと暑かった。それでも何かをやろうという気持ちになれば、それが面白い。落ちているものを拾って使えばいい。それが何であるかなんて関係ないんだ。
大切なのは、何かに心を動かされ、それに反応できる状態にいることだと思う。道具が何であるかは問題じゃないし、最終的な結果だってそれほど重要じゃない。

アーティストは何によって評価されるのでしょう?
500年後にまた来てみることだね。いや、1000年後でもいい。その時もまだ誰かが君の作品について語っていたら、それはアートだったのかもしれない。あるいは、ただ勘違いしていただけかもしれないけどね(笑)。
サーフィンやスケートカルチャーを長年見続けてきた中で、変わらないものは何ですか?
人が海に反応するということだと思う。海はおそらく地球上で最も大きく、最もダイナミックな生命の源だ。環境を守れば、私たちは生きる場所を守ることができる。もし傲慢な誰かが海を汚染し、自然がそれに反応して人類が絶滅してしまうようなことになったら……誰かがもっと早く、そのことを考えるべきだったんだろうね。
世代が移り変わっても、このカルチャーが生き続けてきた理由は何だと思いますか?
誰もが、巨大な波の日に誰かが信じられないライディングをする瞬間を見たことがある。そして人は今でもその話を語り合う。「あれは誰だった?」「どの波だった?」なんてね。でも実際には分からない。ただ、その瞬間に反応しているだけなんだ。
カメラの前にいるかどうかなんて関係ない。カメラの真正面で素晴らしい写真を残す人もいる。それも一つの才能だ。一方で、妻や親友、小さな子どもをボートに乗せて、人のいない海へ行き、ただサーフィンをする人もいる。サーカスでピエロと一緒に芸を披露する方が幸せなのか? 私には分からないね。

人生を深刻に考えすぎない秘訣はありますか?
一番いいのは、自分がどうしてもやらずにはいられないことをやることだと思う。利益や見返りなんて特にない。もちろん利益を出すことは誰もが向き合うものだろう。でも、何かを続けるなら、まず情熱がなければならない。面白くもないことを、どうして続けるんだい?
これからの世代へ伝えたいことはありますか?
見つけた時よりも、少しでも良い状態で残して去ること。それが自然との付き合い方だ。いわば「Wilderness 101(自然との付き合い方の基本)」だよ。

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